2012年02月02日(木)

今日、名古屋は雪が降って大変でしたが、「新しい」の話を書いてみます。

 

まず、月刊モデルグラフィックスという雑誌の19984月号に載っている小特集「ボーメ・フィギュア、NYアートシーンを直撃する。」から村上隆とボーメの対談から、一部を引用します。

これは、村上隆の有名な作品であるKo2ちゃんの原形製作を担当したボーメさんが、単独でNYでアートとして展示会を開いた事をきっかけに組まれた特集です。

 

村上Ko2ちゃんがボーメさんの手を離れてから、もう、かなり時間が経つじゃないですか。その後の展開を端から眺めていてどんな気分でした? 

ボーメ:いや、ぼくはある意味、最初から自分は一つの歯車だと考えていたから。モーターは村上さんでしょ。で第1ギアがぼくで、第2ギアが三枝(徹)さん、第3ギアがハドソンさんとかね。それに、あれのどこがアートなのかも自分にはよくわからない。だから、Ko2ちゃんがひとり歩きしていってしまっても、別段、居心地の悪さとかは感じなかったですね。

ただし、ほかの原型師って結構そういう事に対して過激じゃないですか。いまの原型師って、みんな芸術を目指していると思うんです。つまり、これまでは「自分の作品はアートだ」と思っていたわけですよ。それなのに、Ko2ちゃんみたいなものがアートとして成立してしまうと、もう、何がアートなのかわからなくなってしまった。だから、「なんであれがアートなのかわからん。アートっていったいなんやねん!?」という感じだったのでしょうね。それに村上さんが「あれもアート、これもアート」とか言うから余計にわけわからなくなるし。

村上:わはははは!(爆笑)

ボーメ原型師がアートだと考えていたのは、たとえばミケランジェロとか、そういう人なわけでしょ。でも、現代アート概念からして捉え方が違ったというか……モデラー自身がみんな勘違いしているんですよね。そういう古典的なアートと現代アートを。

村上:その(勘違いの)原因がどこにあるのか、それはわかっているんですよ。日本の美術教育に原因があるんです。

日本の美術教育のダメなところは、長いアートの歴史のなかから、ほんとに数少ないアイテムのみしか取り揃えていないんです。で、「その数少ないアイテムだけに価値観がある」というふうに教育してしまっていて、「価値を多様に探していくことがアートの大事なところだ」という、いちばん大切な部分を教えていないんですよ。

ボーメ:作品を外面でしか見せていないですよね。作品が作られた際の、そこにあったはずの文脈が無視されている。

村上:そうそう。「これがいい」という価値観を擦り込まれてしまったから価値があるように思えているだけで。それと、「ミケランジェロのなかの、どの部分が普遍的な価値なのか?」ということに関しては何も教えてくれなかったでしょう。ただ漠然と「これは普遍的な価値のものだ」ということしか教えてくれない。で、実際にミケランジェロ作品を眺めると、確かに上手い、デッサンは合っている。ただし。それしかわからないんですよ。

でもね、「なんでミケランジェロが尊敬されているのか?」というと、それ以前の時代に比べて、ミケランジェロがそれまでと違う何か新しい提案を表現したからだと思うんです。「その新しい”+α”の部分、そこの概念がアートなんだ」ということを教えていない。だから、そういう部分をきちんと踏まえて理解したうえでアートの世界に持ち込まないと、ガレージキットやフィギュアがアートになる可能性はゼロですよね。ただし、そういう素養はあると。だからその素養をジョイントして持っていけばアートになり得るよ、というね。

ボーメ:……いまの話は非常にわかりやすいなぁ。いや、いま、初めてほんまに納得しました。なんで最初からそう言ってくれないんですか!?

村上:だって……ぼくも最初はよくわからなかったから(笑)。いろいろ考えた結果、つい最近この考えに到達したんですよ。思い返してみれば、そもそも「(日本の美術教育が)なんとなく間違ってないか?」って気付かせてくれたのは、金田伊功だったんですよね。アレを見て「あ、受験勉強とかのデッサンなんて関係ないんだ」って。

月刊モデルグラフィックス1998年4月号 P51より抜粋)

この他にも、面白いところがたくさんあるんですが、とりあえずは、僕がとてもわかりやすいなぁと感動したところだけを引用しました。

えーと、引用するだけでお腹いっぱいですね。

アートとは何かっていうのが、わかったような気がします。なるほど、ピカソだけ見ても、「なにこれ? こんなの子供でも描けるじゃん」としか思わないはずです。作品だけ見ても、「新しい」はわかりませんからね。

「新しい」って大事なんですね。

で、何か今までにないものを作っただけでは、それは「新しい」にはならないようです。

過去のものに繋げてみせて、はじめて「新しい」になるんでしょう。

ただ今までにない「違う」と、「新しい」は違うようです。

そして、その「新しい」の価値は最初は、多くの人には認められない。「価値の多様に探していく」人だけが見つける事が出来る。

そのうち、「新しい」価値は広まっていって、普遍的な価値になっていくんでしょう。

「新しい」を見る事は、未来を見る事とも言えそうですよ。

(よくわからないまま、ほわっーと終わる)