2012年01月19日(木)

「イタリア人船長」

 

私たちの豪華客船地中海のクルーズは、3日目の夜に中断を余儀なくされた。

船の揺れにもすっかり慣れ、深く眠っていた私たちは、聞きなれない刺々しい音に、突然起こされた。

サイレンの音だ。

部屋は真っ暗闇だった。点けて寝たはずのフットライトが消えている。おかしい。

起きた妻と声をかけあいながら、ベッドから起き上がった。外が騒がしい。私たちは壁を伝い、なんとか船室を出た。

廊下は赤い非常灯だけが灯り、毛足の長い絨毯は水浸しになっていた。他の船室から出てきた乗客も事態が掴めず、おろおろするばかりだ。

そこへ、若い船員が走ってきて、大声で言った。

「避難して下さい。この船は座礁しました。落ち着いて、指示に従って下さい。大丈夫です。落ち着いて指示に従って下さい」

周りの乗客の動揺が伝わってくる。空気が揺れていた。心臓の鼓動がより激しくなった。

船員は、落ち着いた声でゆっくりと話した。

「まだ大丈夫です。時間はあります。落ち着いて下さい。絶対に助かります。このまま甲板に上がって下さい。救命ボートが用意してあります」

船員の声に励まされながら、私たちは甲板へ向った。サイレンの音に潰されそうになりながら、それでも妻と一緒に歩いた。

甲板の登ると、すでに救命ボートが用意されていた。船員たちが、乗客一人一人に声をかけながら、救命ボートへ導いてくれた。船長の的確な指示が飛ぶ。船員の動きは、とても訓練されていて、乗客の多くはパニックもなく、それに従っていた。救命ボートは、降り立つと心許なく、ぐらぐらと揺れた。私は、あわてて座った。お尻が冷たい。

救命ボートに人が揃ったのを確認すると、船員が救命ボートに用意された食料などの説明をした。

「船員さん、あなたたちは?」と、初老のご夫人が訊いた。その問いに、若い船員は「私たちは、お客様より後です。そして、船を最後に離れるのが船長。そう決まっているのです」と答えた。船員は微笑むと、タラップを上がって船に戻っていった。

救命ボートから見上げると、灯の点いていない客船は誰もいないビルのようだった。周りを見ると、同じようなボートがいくつも海に浮かんでいた。

救命ボートが客船から離れていった。突然、客船の電気が復旧した。客船がどんどん離れていく。動いているのは、ボートではなく客船だった。

救命ボートの上の乗客は、みな、着の身着のまま。荷物は全て、客船の上である。

あれは海賊船だったのだ。