2012年05月19日(土) #poyosen

まず、一番大事な事を最初に書いておこう。

ねとぽよちゃん支持。

 

 

……さて。

 

フィクションが面白くなかった時に「リアルじゃない」という人たちがいる - Togetter

 

このまとめを今日の朝に読んだんですが、その内容はともかく、自分の中で、あーなるほどねー、と思う言葉があった。

そこから話を始めてみようと思う。きっかけは、この言葉だ。

「>漫画でも小説でも映画でもテレビでも、「リアルじゃない」という貶し言葉をよく見かけるが、これは本質からズレる。というか物を貶すボキャブラリーが足りないと「リアルじゃない」「リアリティが」とかそっちの言葉になる人が居る」 (Twitter / @shimaguniyamato: 漫画でも小説でも映画でもテレビでも、「リアルじゃない ...

 

これ自体の内容は、僕にとっては、わりと重要ではない。

ここでひっかかったのは、この言葉。

「リアル」と「リアリティ」。

僕の中では、この2つは違うものだと思うのだ。

桂米朝の本で読んだのだと思うのだけど、こんな話がある。

ある名人が、丁半博打が出てくる落語を演じた。後で本物の博徒の人が来て、その博打の演技で実際とは違う箇所を細かく指摘した。その名人は「そんなの、客は知らないよ。それっぽいならいいの」と答えたという。

この話が、僕の考えるところの「リアル」と「リアリティ」を説明してくれていると思う。この話の中で出てくる博徒の知っている実際の博打が「リアル」、落語家の演技が「リアリティ」なのだと思う。

「リアル」というのは「事実そのもの」。多くの人の合意で出来ているものだ。

一方で「リアリティ」は、「事実っぽく」なければそれで充分。さきほどのエピソードの博徒とお客さんのように、それぞれ違っていてもかまわないものだと思う。なので、最初にあげたまとめにもあるように、観客にあわせてリアリティのレベルを変えるのだと思う。

フィクションであっても、この現実(リアル)と切り離されては存在出来ないと思う。なぜなら、どんな読者もこの現実に生きているからである。

そのうえで、「リアリティ」は、フィクションと現実(リアル)を繋ぐ掛け橋、あるいは入り口の役割を担っている。リアルである必要はない。だが、リアリティがなければ、読者はその作品世界に入り込む事が出来ないと思う。

物語にリアリティは必要だ。

 

 

 

……忘れてた。

さて。

 

 

『ねとぽよ』2号はARG特集である。

ARGというのは、アメリカで出来たなーんか新しい概念である。インターネットやテレビや本から、現実に染み出てくるようなフィクションの事を言うらしい。

説明する気はない。

『ねとぽよ』2号では、ARGの日本の第一人者が詳しく優しく実例もあげて教えてくれているので、それを読んだ方が正しくドヤれる知識がつくだろう。ざっくり言うと、貞子みたいなものだ(多分)。

その知識自体も面白いのだが、感心したのはその構成だ。

ARG特集は3部構成+1になっている。

1部は、本場アメリカのARGの歴史

2部は、日本のARGの現状みたいなのを対談形式で。

3部は、そんじゃあやってみようレポ

……って感じになっている。

ここまでは、ARGすごいよねー。ARG未来キテるよねーって感じだ。

そして、+1。大塚英志のインタビューだ。

これが面白い。

ここで一気に爆発する。

大塚英志は「そんなん80年代から知ってるもんねー!pgr〜」とばかりに、一刀両断にしてしまう。

これは面白い。

この大塚のガチ感は、是非とも読んでもらいたい。

これがないと、ARG特集の意味がないと言っても過言ではないと思う。

このガチ感やその思想的な意味合いは、こちらの@Kyohjin_Kyohjin先生のエントリー『メタゲームという「ゲーム」の果てに: アルクトゥルスの25度下』に詳しい。

僕は、このインタビューによって、ARGの可能性が拡げられたのだと思う。

このインタビューは、ぼそぼそといつもの通り繰り返された宣言なのだと思う。

 

全ては、現実とフィクションの境界を揺さぶる為のものなのだ。

2ちゃんねる携帯小説のようなネット発の現実(リアル)っぽい話も、

現実で繰り広げられるネットのアイコンやアバターを介したコミュニケーションも、

ネットを舞台にしたリアルの物語も、

リアルを舞台としたネットの物語も、

そしてあらゆる物語も、全ては同じなのだ。

 

現実(リアル)と物語(フィクション)は繋がっている。

読者のリアリティが繋げている。

そして、リアルとフィクションの狭間は常に揺れ動いていて、物語は現実に手を伸ばしてハッキングしている。

 

二次元に行きたいとか寝言を言うな。

 

物語は、すでに、常に、現実に手を伸ばしている。

ハックしている。

現実に影響を与えない物語なんてクズだ。

 

そして、物語が現実を変えた時、人はそれを革命というのだ。

(ドヤァアアアア!!)

 

 

 

……はぁはぁ。

ほーら繋がったような気がする!

 

 

 

さて。

 

この力の籠もったARG特集+1だが、総括もまとめもなく、さらっと、自然に、突然に終わってしまう。

ぶつ切り感がヤバイ。

ヤバイレベル。

しかし、これ自体がメッセージなのである。

このぶつ切り感が、ねとぽよくが未来へと続く物語の途中にいる事を示しているのだ(小ドヤ)。

 

 

 

 

 

 

ところで。

Kyohjin_Kyohjin先生が『氷菓』の話をエントリに入れ忘れていたらしい。(Twitter / @Kyohjin_Kyohjin: あ、氷菓の話を入れるつもりで忘れてた…「データベース ...

なるほど、リアリティの話をしておいて、『氷菓』の話をしないのは片手落ち感あるので、ついでに何か書いておこう。

ちたんださんはすごくかわいい。

ちたんださんはすごくかわいい。

かわいいのだけど、『氷菓』はそれだけではない。『氷菓』は、今までの萌えアニメと明らかにリアリティが違っている。そういう風に感じる。

それを端的にいうと、『氷菓』は「空気」を撮ろうとしている。僕はそう思っている。

この「空気」は批評界隈でいうところの空気系の「空気」ではない。そのものずばりの「空気」である。

この点で、アニメと対照的なのは実写だ。

実写では、空気は必ずフィルムに映ってしまう。意図せずともそこにあるものを撮ってしまう……それが実写だ。

しかし、アニメは「描いたもの」しか映らない。意図的なものしか映らない。偶然に写り込んだものは何ひとつとしてないのだ。それは「空気」だってそうだ。

『映画版けいおん!』は、アニメに偶然写り込んだものを描こうとしていたのだと思う。その不可能への挑戦が、画面の端に漂う緊張感を生んでいた。

そして、『氷菓』は空気を描こうとしている。そして、空気には意図が与えられる。

意図を込められた空気は、結果として、空気とは違うものになるだろうと思っている(中ドヤ)。

twitterで見た@totinohanaさんの謎めいたこのツイートには、そんな意味もあるのではないだろうか。Twitter / @totinohana: 『氷菓』を見ると、京アニさんは「エーテル」を撮ろうと ...

 

 

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(おわり)