2012年05月21日(月) #poyosen (場外乱闘編)

『オナホ男』は、『ねとぽよ』2号に掲載された小説である。

『オナホ男』は、全編にパロディがちりばめられた傑作小説である。

『オナホ男』は、じょーねつ(@johnetsu)さんが書いた小説である。

『オナホ男』は、「オナホ男」と呼ばれる事件であり現象を描いた小説である。

『オナホ男』は、ネットで起こったその一部始終を体験できる小説である。

『オナホ男』は、すぐれたパスティーシュ(文体模写)小説である。

『オナホ男』は、小説である。

 

そして、文学である。

文学フリーマーケットで発売されたのは、実に象徴的で、実に挑戦的である。

 

 

『オナホ男』の感想を書く前に、どうしても「これが小説か否か」という問題に触れないといけないと思う。

それには小説の定義問題や歴史に触れないといけないだろうが、それは僕には無理だ。だから、僕の考えだけど書いておく。

これは、冒頭に繰り返したように、小説だと思う。

その描写を、一部画像に託す事なんてラノベでは基本だし、データでそれを示すのも、清涼淫流水がやっていたように思う。

だから小説だと思う。

それに、作者が「これは小説」って言ったら、小説って事でイイと思う。

そうやって、ジャンルは書き換えられ拡張されていくものなんだと思う。

菊池桃子がロックだと言ったら、それはロックであるのと同じように。

だから、受け手として、まずはじょーねつさんのチャレンジに、最大限のエールと拍手を送りたいと思う。

すごい! 拍手! 88888888888888888!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

『オナホ男』の感想を書きたいと思う。

 

『オナホ男』は、モニターの向こう側で起こる事件を、読者に追体験してもらう小説だ。

それに適した文体で描かれている。

『ねとぽよ』が電子書籍である事と相まって、この物語がモニターの向こう側で起こっているのだという事を、強く意識させられる。

読者は、否応なくヲチャーの立場に座らされる。

 

ここで、今までに成功したネット発の物語をあげてみよう。

ドラマにもなった「電車男」。「ボスニアでの戦争体験談」「コトリバコ」のようなコワイ話、「ゲームセンターで出あった素敵な彼女」などといった2ちゃんねる発の物語がまず思い出されるだろう。

他にも携帯小説もいれてもいいかもしれない。

これらには共通点がある。

どれも「実話形式」で語られる事が多い事だ。

これらの物語が本当に実際にあったのかどうかは関係がない。語り手が「実話だ」と主張し、読者は「実話かも知れない」と思って読んでいる事が重要なのだと思う。

もちろん、全くのフィクションもあるだろう、だが、やはり有名な物語は実話形式である事が多い。

では、なぜ実話形式が選ばれるのだろう。

もしかすると、その理由に、ネットが横書きである事があるのかも知れない。「横書きは事実、縦書きはフィクションであるように思えてしまう」……というような事を、森博嗣がどこかで書いていた。横書きと実話形式は相性がいいのかも知れない。

その理由は、実のところわからない。なぜ実話なのかと言う理由は、なかなか重要な気がするのだが、それを探るのは、ひとまず置いておこう。ここで僕が重要だと思うのは、2ちゃんねるの物語も携帯小説も、どちらも実話形式をとった結果、読者は傍観者の立場となる事だ。

実話と言う時点で、読者はどうやっても当事者にはなれない。

ネットは、小説などの受け手のメディアとは違い、ブログを書き込む事も出来る。ツイートする事も出来る。HPを作る事も出来る。Wikipediaを編集する事も出来る。

しかし、自らアクションを起こさない限り、ヲチャーでしかない。

ネット発の物語に対し、ただ享受するという時点で、読者は登場人物ではなくヲチャーの立場を強いられる。現在進行形の場合ならともかく、過去となる事で物語と化してしまった時点で、それは、そうならざるをえない。

『オナホ男』もそうだ。

その点で、『オナホ男』はまさにネット発の物語であり、ネットをよく描けている。

 小説は、読者は主人公になる事が出来る。フィクションと明示する事で、読者はどこの誰でもない主人公と一体になる事が許される。

ネット発の物語は、実話形式をとる事で現実(リアル)とフィクションの境界を揺さぶっているように見えて、実は明確に分けてしまっている。

 

『オナホ男』は、あえて、小説であると銘打つ事で、フィクションであると宣言することで、そういったネット発の物語の限界を超えようと足掻いているように思える。しかし、その試みは失敗しているように思える。

オナホ男に感情移入することはあるかもしれない。同情する人もいるだろう。しかし、オナホ男の体験を追体験するようには、この物語は出来ていない。オナホ男の一人称でこの物語で描かれていない。

『オナホ男』は、ネットをよく描けていると思う。

しかし、その点が『オナホ男』という小説の限界だと、僕は思う。

 

ネットでは、誰もが自由に簡単に情報発信側に立つ事が出来る。誰もが炎上する事が出来る。誰もが「主人公」になる事が出来る。

それがネットだ。

だから、一人称で描かれるネットの物語もあるはずだ。

一人称で描くネットの物語もあるはずだ。

 

その可能性を指摘だけして、この世迷い言を終わりにしたいと思う。

そんな物語に出会える日を夢見て。

そんじゃあねー(言うだけ言って逃げる)。