映画「めめめのくらげ」見てきた。その感想。

今日、「めめめのくらげ」を見てきました。

 

なかなか面白かったので、感想を書いて、色々と整理したいと思います。

 

というわけで、改行の後、ネタバレ全開でお送りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内容はというと、ウルトラマンです。ポケモンです。はだしのゲンです。とにかく、なんか色々です。アニメや特撮や、それ以外の映画の色々な要素が込められています。そして、それだけでなく、今の日本の社会の問題点がたくさん詰め込まれていました。

 

 

 

まずは、この映画の中心になる設定である「ふれんど」とは何なんでしょう。

 

「ふれんど」と呼ばれる「妖怪」は、暴走したテクノロジーの力で、子供の負のエネルギーを具現化したものです。でも、重要なのは「ふれんど」そのものではなく、人間との関係にあるんじゃないかなーと思いました。

 

まずは、子供と「ふれんど」との関係です。この映画に出てくる子供たちは、1人につき1体の「ふれんど」をもっています。

 

「ふれんど」は、これまたテクノロジーの象徴であるスマホのような「デバイス」を使って子供に操られ、ふれんど同士、日々バトルを繰り返しています。その関係は、ダンボール戦機のLBXのようです。

 

しかし、その一方で、ふれんどは「絶対裏切らない友達」として、心に傷を負った子供たちに手渡されます。ふれんどは、友達以上の存在として、子供たちに寄り添い、心の慰めとなっています。その友達を使ってバトルに興じはじめたのは、子供たち自身です。その関係は、ポケットモンスターを彷彿とさせます。

勿論、「喧嘩はいけない」とバトルに加わらない女の子たちもいます。でも、その存在は、「ふれんど」バトルの力関係が反映されつつあるスクールカーストの中では無力です。

 

また、映画の中で最強の存在として描かれる「ふれんど」KO2を操るゲーム少年もまた、「ふれんど」との関係は特異です。彼は、ゲームだけが友達だと公言する引き籠もりです。彼の「ふれんど」KO2は格闘ゲームのキャラのように動き、波動拳のような技を放ちます。彼は、その天才的なハッカー技術で、「ふれんど」に自ら手を加えたのでしょう。彼にとっては、自ら作り出した女神が、唯一の縋るべきものなのです。その姿がオタクたちの女神のアイコンとして現代アーティストの村上隆に採用されたKO2というのも、面白い話です。

 

そんな周囲の子供とは対照的に、主人公のふれんど「くらげ坊」にはデバイスがありません。だから、くらげ坊は操れません。くらげ坊が戦う時は、くらげ坊の意志で戦います。両者は、デバイスではなく友情で結ばれているのです。この関係は、野生の動物と人間のような、昔ながらの異種交流もののようです。

 

この町に転校してきた主人公は、この町では他所者として描かれますが、「ふれんど」との関係もまた他所者なのです。

 

 

 

大人から見た「ふれんど」は全く違う顔を持っています。

 

学校の先生や両親など、子供の周囲の大人は、「ふれんど」の存在を知りません。子供たちは、直感的に、その存在を大人に隠しています。とはいえ、その鍵となるデバイスに、子供たちは大きなストラップなどを着けたりして楽しんでいるので、徹底して隠しているというより、子供に対する無関心が「ふれんど」を見えなくしているのでしょう。

 

一方で、日頃、子供の周囲にいない「研究所の黒マント4人衆」が、「ふれんど」という存在を作り、利用しようとしています。黒マント達にとって「ふれんど」は、自らの正義を執行するための道具であり、デバイスでしかありません。しかし、黒マントには、「ふれんど」は見えているし、子供「たち」ことを町で一番、把握しているのです。

 

また、新興宗教の教徒から見れば、「ふれんど」は暴走した技術そのものであり、同時に神のような存在でもあります。ある意味、「ふれんど」の存在を信じているのですが、「ふれんど」は見えていません。大きな驚異となって、はじめて目に見えるのです。それは、新興宗教の教徒だけに限った事ではなく、実は大人全てに言える事なのです。

 

大人と「ふれんど」の関係を考える時、そこにはどうしても、日本の社会の縮図のようなものが見え隠れします。特に、震災や原発事故について思い起こさずにはいられないでしょう。

「ふれんど」が、大人でも子供でもない大学生に囲まれた大学の中の研究室で作られた事も、何かを象徴しているように感じます(しかも、政府の補助の下で)。

 

 

また、映画の公式曲であるにも関わらず映画では使われなかったという、まるで『風の谷のナウシカ』における安田成美のような存在の「めめめ音頭」の中では、「ふれんど」は「黄泉の国からやって来た」と歌われています。

映画では、生命エネルギーとは対照的な「負のエネルギー」を具現化したものと語られているので、まぁ、黄泉の国から来たと言えなくもないのですが、微妙に印象が違います。

ただ、この説明で、「ふれんど」の可愛さの底に漂う死体のような不気味さに納得がいくような気がします。最後、校庭に空いた大きな穴から花火とともに沸き出してくる「ふれんど」達にも、どこか底が抜けてしまったような得体の知れないこわさを感じてしまうのです。「ふれんど」が死と繋がっているとすると頷けます。この映画の監督の村上隆が、過去に「可愛さは死にやすさと繋がっている」というような発言をしていた事と併せて考えると、面白いです。

 

その他にも、「ふれんど」にはカラータイマー(あるいは『エヴァンゲリオン』の使徒のコア)みたいなものが必ず着いていたりとか。中ボス的存在のKo2の声が桑島法子でドハマリだったりとか、くらげ坊の飛行形態が、妙に恰好良かったりだとか、オタク的なツボもたくさんあります。

 

この映画の中の「ふれんど」は、とても曖昧で、さまざまな意味が込められた存在のようです。ぼんやり、そんな事を考えながら、映画を見るのも面白いんじゃないでしょうか(もっとも、映画のスクリーンいっぱいにぶつけられる子供たちの生の感情を見てるだけでも、充分に心を揺さぶられる訳ですが)。

 

というわけで、そろそろ寝ないといけないので、終わりにします。予告編を見る限り、「めめめのくらげ2 マハーシャンク」は、オタク的により酷い出来(褒めています)のようなので、興味のある人は「めめめのくらげ」劇場に足を運ぶといいんじゃないでしょうか。マジ、いつ公開が終わっても、おかしくないと思います。